今日は知人たちのリサイタルも重なっている日だったらしい。
たまにこういう日もあるものです。

というわけで、私はMark Padmore & Till Fellnerの
「冬の旅」を聴いてきました。
そもそもインターネットでたまたま知ってネットで
購入したコンサート。
自分の既知の情報としては、どうやらバッハのエヴァンゲリストより
メサイアやヘンデルのCDで聴いていたらしい。
先週のマスターコースも聞き、実際のコンサートでどういう演奏を
されるか非常に楽しみにしていました。

「冬の旅」はといえば、実は恥ずかしながら今まで
”食わず嫌い”(?)でほとんど勉強してこなかった曲。
なんとなくバリトンが歌う曲、という勝手なイメージ。
たしか昔知人がどうしても行かれなくなってプライの「冬の旅」
を代わりにありがたく聞かせてもらったような。
しかし24曲の長さに撃沈。途中意識がなかった覚えがある。
やはり身銭を切って勉強しないといけないものだ。

冒頭の有名なフレーズ。予想外に一気に引き込まれた。
どんな弱音にしても言葉が聞こえてくる。
ピアノとのバランス。
多彩な音色。ファルセットのような高音から
スピントのかかったような激しい表現も。
確かに「セクシーな」と形容されるのも分かる気がする。
自分ならヴィブラートのかかるような箇所も彼は基本
ノンヴィブラートでコントロールしていた。

24曲すべて暗譜。そしてこの表現力と集中力と体力。
二人の素晴らしさの余韻にしばらく浸っていたが、
その一方で、このような演奏を聴かされると自分が演奏することが
恐ろしくなってくる。
数日前久しぶりに声の調子が良くなく、昨年の状況を思い出して
びくびくしていたこともあり、ちょっとナーバスになっている。

それにしても、時間というものはこれほど伸び縮みするものなのか。
終演は20:30ころだったろうが、この九十分近くは本当に
濃密な時間であった。
彼らを見つめながら、自分を見つめ、
この”暗い”物語はわたしをしばしの間救ってくれた。
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2017_02_23


今日は久しぶりにマスターコースを聞きに行ってきた。

マーク・パドモアは私の中ではリートというよりは
バロックのオラトリオのイメージが強かった。
しかし今回はソプラノ二人の受講者のSchubertの曲について
さまざまなサジェスチョンを与えてくれた。

歌う時に大事なのは4つだと言う。
まずは言葉。言葉を読むこと。
それから、フレーズ。ハーモニーを良く聴くこと。
そしてリズム。
「言葉」以外は西洋音楽の三要素ではあるね。
わかってるよ。と言いたくもなるが、
でも実際にそれを実践することは決して簡単ではない。

最後の方で言っていた”inspiration”という言葉。
身体的には、息を吸うことであるが、
それとともに「発想」「霊感」という意味もある。
次に始まる音楽を想ってブレスをする。

********************

途中から別のことを考えていた。
やっぱり自分にはモダンのピアノは大きいなあ、ということ。
ホールも素敵なホールだし、ピアノだっていいピアノ。
でも。
やっぱり。
自分にはちょっと冷たく感じるのだ。
そして自分の身体(と声?)を少し固くさせる。
ピアノの張力の高さゆえか。

Schubertなら一層fortepianoなどで歌いたい。
パドモア氏の言うように歌い手は言葉を語り、
ピアノでも語ってもらえるように。

来週は彼の「冬の旅」を聴きに行く。
自分はほとんど歌ったことないからあとで勉強しなくちゃ。
2017_02_15


前回書いたことともつながる内容になるかもしれない。

先週末に名古屋にてグレゴリオ聖歌を歌う方々の
「指導」に行ってきた。
「」をつけたのは、自分が教えるという資格が
あるのか、未だに自信がないからである。

G.ヨッピヒ師、また橋本先生は、
グレゴリオ聖歌は歌でないと仰られる。
しかし近年、時の趨勢の中で”歌われる”ものとして扱われ、
それを彼は嘆き、いや、もはや諦めているように見えた、
とは先生の言葉。

洗礼をも受けられていない自分がグレゴリオ聖歌を
歌うこととは何か。

グレゴリオ聖歌を歌うことはネウマをただ歌うことではない。
ネウマを「通して」言葉を響かせ、祈ることなのではないかと思う。
そこは自ら陥りやすい錯覚だ。
ネウマを、音を正しく歌えれば、なんとなくうまくいった気がする。
しかし、それは恐らく
出発点でしかない。

昔のレッスンでも彼は伝えていた。
”Tone”(音)ではなく”Klang”(響き)なのだと。
急ぐなかれ。遅れるなかれ。
それらは似ているが異なり、
禅問答のように、自らに絶えず問い続ける作業が必要となる。

数時間の「指導」の時の中で、十人近くの方の息遣いを
目の当たりにしながら、自分は表面的な指摘をするしか
なかった。
しかし私は幸せなことに、普段ご指導なさっている
N神父様の空気感を共有されている方々の静かな響きを
感じることができた。
深い探究心、謙虚さ、明るさなどを合わせて持ち合わせている
メンバーでいらした。

***********************

先日、灰の水曜日のための聖歌について、
橋本先生は”神の時”というお話をなさった。
神の時は長い。

現代のわれわれがいかに毎日忙しく生きていることか。
空いている時間はあたかも空虚であるかのように
さまざまな事を詰め込んで生きている。
瞬時の思いが結果に表れることを求めている。

しかしもっと長い時を見つめている人々もいる。
先日読んだ新聞には、相撲の若手の呼び出しの話がのっていた。
彼は若い時からその世界に入り、十年ごとの目標を持ってその仕事を
務めていると言う。

また先日亡くなられた藤村俊二さんの言葉の中で。
「3つの「き」、元気、陽気、勇気があれば、たいがいのことができます。
それでも駄目なら時という「き」があります。
焦らないでゆっくりと進んでください。」

わかりやすいこと。結果が目に見えること。
自分が教える際に気をつけていることではあるが、
その一方で、それがその時々の表面的な浅い内容だけに
留まってしまわないように、注意しなくてはならない。
目に見えなくても育っていること。
目に見えなくても大事なこと。
音楽はそのひとつだ。

聖グレゴリオの家の白梅もやっとほころんできた。
毎年咲き始める花を見て、つくづく不思議だと思う。
我々に見えていなくても、確実に「何か」の力は
働いているのだ。

落ち着いて物事に当たり、
あとは希望を失わずに待つこと。
自分を考える際にも、また人を思う際にも
急がず「待つ」力は必要だと思うのだ。
この時代だからこそ。

2017_02_07


すっかり世の中で起きていることの変化が
めまぐるしく、自分が年を取って
それについていってないのでないかと
時おり不安になる。
しかし、石橋を叩いて半歩進む、ような性の私は
それをある程度諦めている自分もいる。

昨日は自分より若いフォルテピアノ奏者Oさんと
制作者Oさんの工房へお邪魔してきました。
(おっと、そういえば私もOさんだ。。)

なにぶん器楽には疎い私。
しかもカタカナに弱い。…数字にも弱いんだった。
様々な楽器の(会社の?)名前が並ぶたびに
脳みその短期記憶のメモリーが溢れる始末。

ロシアやヨーロッパの古典文学を読もうとした二十代の頃、
初めの十数ページでたくさんのカタカナの名前が出てくると
それだけですでに挫折、、二、三日経ってアタマから
また整理して読み始めて、、ということを繰り返したのを
思い出す。

閑話休題。
というわけで詳しく書けるといいのだろうが、
教えて頂いた知識は実は細かくは覚えていない。
ごめんなさいOさん(たち)。

しかし、音の違いは私もわかるほど歴然である。
まずはスクエアピアノという楽器を使って、
シューマンの「詩人の恋」一曲目から合わせさせて
頂いたが、モダンのピアノとはとにかく違う。
製作者のOさんはモダンのピアノを「クリスタル」に例えて
話されたが、フォルテピアノを例えると何だろう。
夕べから考えていたがついにぴったり来るものが
思いつかなかった。

でも自分にとっては、モダンはCD、フォルテピアノはレコード
の感触がする。(音響学的には正確ではないのだろうが。)
ざらりとした手触り。郷愁を掻き立てるような音、
でも木のやわらかで豊かな響きをまとった音だ。
モーツァルト、ベートーベンも歌ってみたが、新たな感触に
戸惑いながらも、自分の身体のバランスも変えないと楽器に
フィットしないんだろうと思わされた。
ギタリストの方と歌ったときとまた違うバランス。
でもルートヴィヒともちょっぴり友達になれそうな気がした。

オルガンという楽器も、教会の空間と一体となって
ひとつの響きをうみだすように、
こういう楽器もその楽器の音を十全に生かせる
サロン的な会場で響くことでその能力を発揮できるのだろう
から、その検討も大切なことを知った。
愛らしい詩のついたリートも、このような楽器のほうが
より親密な感情を表現するのに適しているに違いない。
楽曲、詩、芸術、楽器、建築、そして演奏法も
その時代の人々のインスピレーションが
それぞれ影響し合って初めて生まれた、
ということを忘れてはならない。
今回は楽器が違うことによってこんなにも
音楽の”像”が変わることに、想像以上に驚いた。

それにしても、まさか自分がこういう楽器とともに
演奏することになるだろうとは一年前さえ思わなかった。
奏者さんともおそらく一度位しかお話ししたことのない
方との出会い。それでもきっとご縁があったのだとしか
思えない。

確かにある意味では「おもちゃのよう」に見える楽器。
でもこの「じゃらん」とした響きに心がざわざわするのは
なぜだろう。
モダンピアノではタキシードか燕尾服のイメージ。
フォルテピアノは何を着ればいいんだろう。
幸せな悩みである。
2017_01_31


明けましておめでとうございます。

皆様が健やかに過ごされますように。

とは言いつつも、この数日だけでトルコでの事件、
またイラクでの悲惨なニュースを知ると
声高らかに「おめでとう」と言えない。

イデオロギーに関わらず、手垢のついていない
「平和」「平穏」という言葉の状態が、
笑顔が、多くの人にもたらされますように。
「恐れ」「憤怒」「無知」「狭量」が
われわれの心を蝕むことがありませんように。

* * * * * * * * * * *

年末は家族との語らいのなかで、
新年の活動に対して新たなヒントを得た。

昨年から始めた<シューマンに恋して>という企画
であるが、次回はフォルテピアノを使って歌ってみたい、
と思い始めたのである。
そもそも自分の中では、かつて愛聴していたシュライアーや
ヴンダリヒによる演奏が強く心に刻まれているので
「フォルテピアノ」による演奏なぞ思いつきもしなかった。
しかし、話題に上り少し調べてみると、そのアイデアは
自分の演奏に大きな可能性をもたらしてくれるかもしれない
と思うようになった。

また、来年の年頭にHugo Distlerの「クリスマス物語」
を演奏できる運びとなった。
演奏はEnsemble UNUSというアマチュアのアンサンブルだが、
皆さん長らく一緒に時間を過ごしてきた気の合った方々なので、
さらに一年間地道に準備しながら(音取り!!)幸せなサウンドを
披露出来るように精進していきたい。

自分と誠実に向き合うこと。
知識と知恵を大切にし、しかしとらわれないこと。
自分の死んだ後の世界を考えること。

今年もご一緒して下さる皆様、
どうぞよろしくお願いします。

2017_01_03


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